鍾会
字は士季 豫州 潁川郡 長社県
三公の更に上太傅の位についていた鍾ヨウが75歳の時産まれた末子。
それが鍾会です。
お父さんの鍾ヨウさんは曹操の苦労時代から使えていた人でして。鍾会が産まれた225年には魏の重臣の一人です。
鍾会は超名門の家に生まれたスーパーおぼっちゃまです。
しかも父の晩年の子供。 そりゃぁもう溺愛されて育ちます。
そんな鍾会は頭はいいけど性格は悪い大人に育ち
司馬昭の懐刀として暗躍します
そして263年剣閣で姜維と対峙して、お手紙送ったりします。でも姜維は強いですどうも倒せそうにありません。
兵糧もつきたし戻ろうかと考え初めていた時、蜀はあっさりと滅びました。
道無き道を越えて成都を目指していたケ艾が成都を落としたのです。
これにより姜維は降伏して2人は成都を目指します。
しかし鍾会は面白くありません。
ケ艾が成都を落としたのが凄く面白くないのです。
そこで鍾会は良い案(?)を思いつきました。
ケ艾を陥れちゃったら手柄は全部自分のものだもんねっ
で、ケ艾は偽の手紙で訴えられて護送されて、最終的には殺されてしまいました。
注:ケ艾が殺されたのは鍾会より後です。
ですが鍾会はこれでも満足できなかったのでしょうか。
それとも漢復興を夢見る姜維がそそのかしたのでしょうか。
鍾会と姜維は兵をあげて魏に反乱をおこしかけ、殺されます。
鍾会 享年40歳 妻子無し(養子有り)
そんな彼単品にも興味を持った方
是非鍾会同盟Rへもどうぞ
もっと詳しく面白く鍾会のことがわかります。
姜維
字は伯約 涼州天水郡キ県
元々は魏の人です。
郡の役人だったお父さんがいろいろあって戦場で死んだために、息子であった姜維はその父の功績をもって役人になります。
しかし姜維がつとめていた天水郡の太守は、諸葛亮が攻めてきた時姜維達を置き去りにして逃げます。
どうしようもなくなった姜維は諸葛亮率いる軍に投降します。
こうして、蜀に下った姜維はまあ地道に地道に努力をかさねて北伐したりいろいろあって大将軍になります。
そして263年。剣閣にて姜維と鍾会は対峙します。
いい加減鍾会軍の兵糧もつきかけ撤退を考えていた頃、まさかの事態がおこります。
陰平の街道から700里あまり。道無き道を無理矢理道つくったり穴掘ったり谷を転がり落ちたりしてケ艾が成都へ奇襲し、蜀漢が滅びたのです。
姜維は成都からの連絡をうけ、鍾会の軍に投降します。
そののち姜維と鍾会は結託して魏に対して反乱をおこしかけます。
しかし、ツメの甘さか人望のなさかわかりませんが この反乱は未然に防がれ 2人は殺されてしまったのでした。
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